言葉も何もわからず入ったチェコの小学校。近所のおじさんやおばさん、友達に大事にされて、何の屈託もなくチェコの文化を吸収して育った70年代。そして、ひとりでプラハへ留学して厳しい現実を体験した80年代の半ば。西ベルリンで遭遇したベルリンの壁崩壊から、雪崩を打つようにチェコスロヴァキアに波及した89年の民主化運動。それを目の当たりにして思ったのは、私はチェコという国と、とことん付き合うことになるだろう、ということだった。皮肉にも「プラハの春」の事件がなければ、私はチェコという国と関わることはなかっただろう。私の人生に多大な影響を与えた国チェコの運命は、もはや他人事では済まされなくなっていたのである。
西ベルリンに暮らし始めて3ヶ月目の1989年11月9日、東西冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの熱狂ぶりを世界に報じた。その歴史的大事件は、隣国チェコスロヴァキアの足元をも揺さぶっていた。少しずつ改革が行われてきたポーランドやハンガリーに比べると、チェコスロヴァキアは出遅れていた。チェコスロヴァキアと同じように古い体質を維持していた東ドイツの旧共産政権が、ベルリンの壁崩壊により倒れたことは、チェコ人にもショックだったに違いない。チェコスロヴァキアで連日大規模なデモが起きているとドイツのテレビや新聞で報じられると、私は語学学校へ通いながらもチェコのことが、気がかりでならなかった。
11月の末に、日本から友人のフォトジャーナリストYさんがベルリンへ取材に来た。プラハへも行くというのを聞いて、私達もプラハまで一緒に行くことに決めた。それならプラハからブダペストまで足を伸ばそう、と合計4泊5日の短い旅程を立てた。西ベルリンのハンガリー大使館と、東ベルリンのチェコスロヴァキア大使館を1日でまわってビザを取ると、2日後には東ベルリンからプラハ行きの夜行列車に乗り込んだ。
夜行列車に揺られながら、チェコで急速に広がった大規模デモについて考えていた。9月にプラハで泊めてもらった家の人が、旧友マルティンと話していたことがふと頭をよぎった。 「何度も投獄されているヴァーツラフ・ハヴェル氏を支援するデモが週末にあります」と“デモ”と“ハヴェル”の名前を出していた。日本の書籍で、チェコスロヴァキアの人権擁護運動「憲章77」について読み、提唱者のひとりが劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル氏だと知ったが、私の留学していた84年から86年まで、その名をチェコ人から聞くことは一度もなかった。あの話は、今日の大規模デモへとつながる導火線だったのだろうか。そんなことを考えながら眠りについた。
翌朝プラハ本駅に着くと、さっそく町の中心部ヴァーツラフ広場に出ることにした。地下鉄から地上に出てみると、細長い広場を高い位置から見下ろす聖ヴァーツラフの騎馬像の前に人だかりがしている。近づくにつれ胸が高鳴った。像の台座には、びっしりと紙や写真が張られていた。低い場所にはロウソクの火が灯され、そのロウが幾重にも流れて模様になっていた。ロウソクと共に、数え切れない程の花束が手向けられていた。人々は、ヤン・パラフを忘れていないのだと思った。民主化運動「プラハの春」が打ち砕かれた翌年の1月、聖ヴァーツラフ像の前で抗議の焼身自殺をしたのが、学生のヤン・パラフだった。昼間なのに頭が痛くなるような極寒の中、老いも若きも集まっていた。ヴァーツラフ像の背後には、手にビラを持って配る若い男性がひとりいる。その若者に近づき意見を言い始めた老人がいた。遠巻きに聞く人が次第に集まってきていた。
私はカメラのファインダーを覗くと、どこかで見たような光景だと思った。体験はしていないのに、「プラハの春」事件の時の映像と重なって見えたのだった。「プラハの春」から21年。ヴァーツラフ像の周辺に、トリコロールカラーのチェコスロヴァキアの国旗が何枚も掲げられていた。
途中からYさんと別行動をとり、父がプラハ支局にいた時に2代目アシスタントを務め、後に現地記者となったペトルに会いに行くことにした。チェコの今の状況を聞けるのでは、と考えたからだ。留学時代は時々支局に行っては新聞をもらっていた。ドアが開くと、
「どうもどうも。忙しいさなかに、よくいらっしゃいました」と流暢な日本語ながら、チェコ人らしく皮肉が込められた挨拶でおかしくなった。私がチェコの状況を聞くと、
「東京から記者が何人も来ていて、てんてこ舞いですみません」とペトルはわびた。ドア越しに、日本人記者達の緊迫した話声が聞こえてくると、邪魔になっては悪いとの思いで、支局を後にした。






