11歳になる少し前、私はプラハに残る家族と別れてひとりで帰国することになった。
8歳の時から、私はチェコの小学校へ、妹はチェコの保育園、母は大学へ通い、家ではチェコのバビチカ(おばあさん)と毎日過ごした。そんな環境の中、いつしか妹と話すのもチェコ語の方が楽になっていた。週に1度だけ日本大使館で補習授業があったが、国語はもとより理科、社会、算数さえもチェコと日本では学習のプログラムがだいぶ違った。チェコの小学校の夏休みは丸々2ヶ月もある上、宿題も出ない。私がのびのびし過ぎて、日本語の勉強に相当遅れを取っていることが、親の目には明らかだった。
中学に上がる前に何とかしなければと思った父の意向で、同じ年頃のいとこが3人いる父の郷里の実家に預けられることとなった。
1973年1月、父がパリの国際会議の取材に行くのに合わせて、私の帰国日が決まった。父とパリで2,3泊した後、いよいよ空港まで来た父と別れることになった。チェコから抱いてきた赤いキツネのぬいぐるみを、さらに強く抱きしめて客室乗務員に付き添われて飛行機に乗り込んだ。
抱いていた赤いキツネのぬいぐるみは、ノヴァーコヴァーさん夫妻から私と妹が贈られたもので、もとは大きいキツネが私、小さいキツネが妹のだった。私の帰国が決まると、妹と私はキツネを交換することにして、お互いの名前をつけたのだった。
日本に帰ってしばらくは、自分の生まれた国にもかかわらず、異国のように感じることがあった。3年ほどチェコに暮らしただけで、それほど向こうに馴染んでしまったのだろうか。
「ねえねえ、チェコってどこにあるの?」「チェコでは何を食べてるの?」
日本の小学校ではきっとみんなの質問攻めにあって、どこからチェコのことを話してあげたらいいのだろう?帰国する前は、そんな浮かれた想像をしていた。ところが、外国から帰った転校生の私は異星人の扱いで、波が引くようにクラスメートが私から遠ざかっていくのがわかって、幼い心にショックを受けていた。
大家族の一員になった私は、いとこと遊ぶうちに学校での出来事は、すぐ気にならなくなった。それでも、夜ふとんに入ると、赤いキツネのぬいぐるみを相手に会話をするようになっていた。思いは、はるかかなたの国チェコに飛んでいた。
「私ってチェコでは外国人だったのに、学校でみんなにやさしくされたよね」
「いつか、きっとチェコに行こうね。バビチカやノヴァーコヴァーさんどうしてるかな?みんなに会いたいね」
(チェコへ行きたい・・・)そう思わない日は一日もなかった。その気持ちはどんどん自分の中で大きくなる一方だった。日本でチェコとの接点を探そうとしてもむなしく、それは時々届く親からの手紙や絵葉書、写真ぐらいだった。






